遠近両用レンズ事件

投稿日: 2017/03/17 10:00:54

ようやくJ-PlatPatが復旧しました。なんでもApache Struts 2の脆弱性をついた攻撃らしかったです。同時期に都税クレジットカードお支払いサイト、日本郵便、沖縄電力、JETROもApache Struts 2の脆弱性をついた攻撃を受けたらしいですから恐ろしいですね。

さて今日は平成26年(ワ)第8133号 特許権侵害損害賠償請求事件について検討します。この事件は眼鏡のレンズに関するものです。原告は株式会社ニコン・エシロールといいニコンとフランスの光学メーカの合弁会社(2000年設立)です。一方、被告はHOYA株式会社でこちらも国内有数の眼鏡レンズメーカです。この事件の判決は今年の2月27日に言い渡されたのですが、事件番号を見てわかるように訴訟が提起されたのは2014年です。そうすると一審だけで約3年もかかっていることになります。近年の知財の侵害訴訟ではかなり時間がかかっている方だと思います(しかも1件ですから)。

この事件で興味をひかれた点は次の通りです。

① 特許請求の範囲で単に「所定領域」とだけ規定されている文言の意義について、明細書を参酌して「所定領域以外の領域」との関係性に基づいて認定することで被告製品は「所定領域」を備えていないと判断した点。

② 特許無効審判請求書で挙げられた無効の証拠が国際調査報告で挙げられた引用文献および国内段階での拒絶理由通知で挙げられた引用文献と重複しており、特許無効審判では実質的に審査と同一の引用文献で新規性・進歩性が否定されている点。

まずは時系列の整理です。

 

1.各手続の時系列の整理

① 本件は日本出願(特願2005-210705)に基づき優先権主張して国際出願がされ、そこから日本に移行したものです。

② 国内書面提出後に他人により出願審査請求がされています。他人による出願審査請求の事例はあまり見たことがないので審査書類情報で確認したところ出願審査請求をしたのは株式会社ニコンでした。おそらく当時は株式会社ニコン・エシロールが出願したものの中で国際出願については日本での出願審査請求を株式会社ニコンが受け持っていたと推測されます。

③ 国際公開に添付された国際調査報告で挙げられた引用文献は以下の通りです。

X:JP2000-066148

Y:JP2004-341086

拒絶理由通知書で挙げられた引用文献は以下の通りです。

1.特開2004-341086

特許無効審判で提出された証拠(一部のみ)は以下の通りです。

甲1:特開2004-341086

甲2:特開2000-066148

なお、特許無効審判では訂正請求項1乃至4は甲1と同一、請求項1乃至6、9及び10は甲2発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものである、と判断しています。

 

2.特許発明の内容

本件特許は特許無効審判で訂正請求がされています。しかし、抵触性の主なポイントは訂正前後で変わっていないので訂正前の請求項1、5をベースに検討します。

【請求項1】

A1 装用状態においてレンズの屈折面を鼻側領域と耳側領域とに分割する主注視線に沿って,比較的遠方視に適した遠用部領域と,該遠用部領域に対して比較的近方視に適した近用部領域と,前記遠用部領域と前記近用部領域との間において前記遠用部領域の面屈折力と前記近用部領域の面屈折力とを連続的に接続する累進部領域とを備えた累進屈折力レンズにおいて,

B レンズの透過光線における光学性能を補正するために形成された処方面は非球面形状を有し、

C 眼鏡フレーム内に設定された、前記遠用部領域(F)の測定基準点である遠用基準点(OF)と前記近用部領域(N)の測定基準である近用基準点(ON)の少なくとも一方の前記測定基準点において、前記処方面により発生する面非点隔差成分(AS(x、y))と処方度数の矯正に必要な球面またはトーリック面により発生する面非点隔差成分(C(x、y))との差の絶対値の平均値(ΔASav)が、レンズの度数を測定するための前記測定基準点を含む近傍の所定領域に亘って所定の値以下であること

A2 を特徴とする累進屈折力レンズ。

【請求項5】

A1 装用状態においてレンズの屈折面を鼻側領域と耳側領域とに分割する主注視線に沿って,比較的遠方視に適した遠用部領域と,該遠用部領域に対して比較的近方視に適した近用部領域と,前記遠用部領域と前記近用部領域との間において前記遠用部領域の面屈折力と前記近用部領域の面屈折力とを連続的に接続する累進部領域とを備えた累進屈折力レンズにおいて,

B レンズの透過光線における光学性能を補正するために形成された処方面は非球面形状を有し、

C 眼鏡フレーム内に設定された、前記遠用部領域(F)の測定基準点である遠用基準点(OF)と前記近用部領域(N)の測定基準である近用基準点(ON)の少なくとも一方の前記測定基準点において、前記処方面により発生する面非点隔差成分(AS(x、y))と処方度数の矯正に必要な球面またはトーリック面により発生する面非点隔差成分(C(x、y))との差の絶対値の平均値(ΔASav)が、レンズの度数を測定するための前記測定基準点を含む近傍の所定領域に亘って所定の値以下であること

D 前記所定の値は0.15ディオプターであること

A2 を特徴とする累進屈折力レンズ。

3.被告製品の内容

判決文に添付されていた被告製品目録記載の各製品を被告のホームページで調べるといずれも両面TF設計構造(外面累進+内面非球面)です。そのため被告製品1のみ記載します。

 「被告製品1(HOYALUXサミットTF)」

a1.累進屈折力メガネレンズの基本設計に係るレンズ外面を有する累進屈折力レンズであって、

f1.外面累進設計であり、累進面が外面に配置され、内面に配置されていない

b1.レンズの透過光線における光学性能を補正するために形成された、非球面形状を有する処方面を有する。

c1.遠用測定基準点を中心とする半径2.5mmの領域において、処方面により発生する面非点隔差成分と処方度数の矯正に必要な球面またはトーリック面により発生する面非点隔差成分との差の絶対値の平均値が、0.00ディオプターより大きく、0.12ディオプター以下である。

 

4.主な争点

「構成要件Cを充足するか否か」

(1)原告の主張

被告製品1は、遠用測定基準点を中心とする半径2.5mmの領域において、処方面により発生する面非点隔差成分と処方度数の矯正に必要な球面又はトーリック面により発生する面非点隔差成分との差の絶対値の平均値が、0.00ディオプターより大きく、0.15ディオプター以下である。

したがって,被告製品1は構成要件Cを充足する。

(2)被告の主張

被告各製品には、「測定基準点を含む近傍の所定領域」という特別の領域は設けられておらず、その領域が「所定の値以下」に設定されてもいない。

被告各製品においては、およそ「所定領域」の内側が「所定の値」以下であり、その外側が「所定の値」以上とするような構成は採用されていないのであって、被告各製品は、面非点隔差成分の差の絶対値の平均値が「所定の値」以下とされた「所定領域」を備えるものではない。

したがって、被告各製品は、いずれも構成要件Cを充足しない。

 

5.裁判所の判断

原告は、構成要件Cについて、「レンズの度数を測定するための前記測定基準点を含む近傍の所定領域に亘って所定の値以下」であることを規定しているものであり、所定領域以外のことは規定していない旨主張し、被告は、「所定領域」について、「要するにレンズメーターを当てる部位についてのみ、光学性能を犠牲にしても、面の他の大半部分と異なる非点隔差を設ける局部的な面補正をすることで、レンズメーターによって測定する処方値と一致する箇所を作ろうとするもの」と主張し、被告各製品は、局部的な面補正により所定の値以下にされた所定領域を設ける必要のない構造であるとして、構成要件Cの充足性を争うものである。

そこで、構成要件Cにいう「所定領域」の意義について検討する。

レンズメーターを用いて測定した球面度数及び乱視度数の値を処方球面度数及び処方乱視度数と略同じ値にするため、本件発明は、「測定基準点を含む近傍の所定領域」とその領域における「所定の値」を設けたものであり、処方面において改善された光学性能を犠牲にしても、レンズメーターによって測定する「測定基準点を含む近傍の所定領域」において局部的な面補正をし、面非点隔差成分を所定の値以下にしようとするものであるから、構成要件Cにいう「測定基準点を含む近傍の所定領域」とは、それ以外の領域とは区別された領域であることを当然の前提としているものというべきである。

証拠(乙36)及び弁論の全趣旨によれば、被告各製品の面非点隔差の平均値は、以下の図のとおりとなる(下記図の①-1及び①-2は被告製品1を示す。)。

 

このように、被告製品1は、遠用度数測定点を中心とした遠用部領域全体において、面非点隔差の平均値が本件発明の構成要件Dにおける所定の値(0.15ディオプター)を大きく下回っている。

そうすると、被告各製品においては、レンズの測定基準点を含む処方面の非点隔差は、光学設計上、一定の領域における光学性能を犠牲にしても所定の値以下とするような局部的な面補正、つまり、「所定の値以下」にされた「所定領域」を設ける必要がない構造であることが認められる。

したがって、被告各製品は、構成要件Cにいう「所定領域」に相当する構成を有しないものというべきである。

 

6.検討

(1)抵触性

本件特許発明は、基本的には面非点隔差の平均値ΔASavが所定の値よりも小さい方が装用状態における光学性能が低下するとの前提に立ったうえで、レンズの度数を測定するための測定基準点を含む近傍の「所定領域」だけΔASavを所定の値以下にすることで光学性能の低下を防ぐというものです。したがって裏を返せば「所定領域以外の領域」のΔASavは所定の値よりも大きいということです。しかし、特許請求の範囲ではこの点について言及されていません。

この場合判決のように被告製品は「所定領域以外の領域」のΔASavも「所定領域」のΔASavも同じように所定の値以下なので、レンズ全体として光学性能の低下を防ぐことに寄与する「所定領域」が存在しない、と結論付けるのがシンプルで良いように思います。これ以外の理由で非侵害とするのは複雑になりすぎる気がします。

普通は必要な部分だけ規定すれば良いのですが、本件特許発明のように特許請求の範囲で規定していない部分が定義されていなければ発明の効果を奏さない場合は記載不備のような気がします。しかし、だからといってあまりにも厳密に様々な構成に定義を求めるというと、特許請求の範囲の技術的範囲が狭くなりすぎ、技術思想を文字で表す弊害が大きくなりすぎるようにも思います。なお、特許無効審判で無効理由として記載要件も挙げていますが「所定の領域」については対象となっていません。

 

 

(2)有効性

審査段階の拒絶理由通知書では審査官が「引用文献1(甲1と同じ)に記載された調整帯は、本願請求項における所定領域に相当すると認める」と認定しています。それに対して特許権者は意見書で引用文献1から「調整帯は特に実際にレンズをフレーム形状に形成する際に不要部分となって廃棄される位置(例えば遠用部領域の上部位置等)に形成することが好ましい」とか「調整帯26は要はユーザーが実際に眼鏡レンズとして使用する使用領域を外れていれば主注視線S1上のどこであっても構わない」といった記述を引用してきて、「引用文献1に記載の調整帯は、眼鏡レンズとして使用する使用領域を外れた位置に設けられるものです」と反論しています。おそらくこの反論が拒絶理由を解消したポイントだと思います。

これに対して特許無効審判では他の文献から技術常識を導いて甲1にも当然測定基準点が設定されていると認定した上で甲1の実施の形態1にはフレーム形状内(眼鏡フレーム内)に測定基準点が設定されていると認定しています。そうしたうえで、「当該「測定基準点」を含む近傍に任意の領域を想定すると、当該領域における「処方面により発生する面非点隔差成分と処方度数の矯正に必要な球面またはトーリック面により発生する面非点隔差成分との差の絶対値の平均値」(面非点隔差平均増加量)が、有限の何らかの正の数となることは自然法則から自明であって、当該正の数は「所定の値以下」という条件を満足することとなる。」と結論付けています。

つまり、審判官は意見書で引用された「廃棄部分に調整帯を設ける」という点はいずれも実施の形態2の内容であって実施の形態1ではフレーム形状内に調整帯(測定基準点)を設けているとしています。そうして、所定の値は特に限定されていないので、面非点隔差平均増加量よりも大きな値を所定の値と設定することも可能であるから、無効と判断しています。

なお、地裁では有効性についての判断はしていません。

 

7.感想

本件特許の明細書に書かれた内容(前提)からすると被告製品の装用時の光学性能はかなり悪いことになります。しかし、実際に被告製品が流通している以上そんなに悪いはずはないと思います。そうすると、特許発明の前提が間違っていたのでしょうか?

もちろん中には机上の空論であって特許の明細書に書かれた理論自体が怪しいものもあります。しかし、光学性能に影響を与えるパラメータがほかにもあるなら、そちらの適正化により光学性能の低下が防がれている可能性もあります。そういった場合には前提自体は間違いではないのですが、その前提が成立しなくなります。

こういうように一部のパラメータに焦点を当てて特許になった発明は製品を製造している側からすると厄介ですね。

また、特許無効審判については同じ証拠で審査段階とは真逆の結論になったわけですが、やむを得ない気もします。審査官も測定基準点がフレーム外と思ってしまったのでしょう。気になったのは無効にならなかった請求項です。例えば請求項7は「所定領域は測定基準点を原点として半径2.5mmの円内である」というものです。この2.5mmが記載された文献はなかったようですが、2.5mmに臨界的意義が存在するのでしょうか?